年末におっぱい工場が閉鎖されるらしい。
朝礼で、突然工場長がみんなの前でそう言った。
当然そんなことを言われてもすぐには受け入れられなくて、大騒ぎになった。
それじゃあ、いま作られている分はどうするんだ?2日分はあるぞ。
そう言って怒ったやつもいたけど、決まったことは覆らないらしい。
その言葉通り、その日から急に出荷先からなんの音沙汰もなくなった。
ただ、余ってしまった分のやり場がなく、ダムが決壊するかのように、工場は作られてしまったものでいっぱいになって、今にも崩れてしまいそうだった。
暫くしたら、工場が壊れてしまわないようにと、作られたものがすこしずつ廃棄されていった。
一生懸命作ったものたち。一年と4ヶ月。どんなに眠くとも、どんなに病気になろうとも、休まず工場は24時間動き続けた。
その幕切れはあっけないものだった。
◆
おっぱいという言葉に恥じらいを感じるタイプの人間だった。
だからこそ、出産前は、産後のママさんたちや助産師さんたちがなんの恥ずかしげもなく、「おっぱいが〜」と言うのを見て、すこしだけ驚いていた。
でも、娘が生まれて変わった。
おっぱいは、ひたすらに娘を生かし続ける装置であり、食糧であり、それはもはやわたしの身体とは切り離された存在のようだった。
そうしていくうちに、おっぱいとわたしの間には妙な絆と思い出が刻まれていってしまった。
わたしはこれから、恥ずかしげもなく、おっぱいの話をしようと思う。
◆
出産前、母乳やミルクにとくにこだわりはなかった。
できれば母乳もあげたいけれど、夫や母に娘を預ける機会もあるだろうし、適度にミルクも織り交ぜていきたい、そうだ、混合がいいかな、程度の認識。
出産前に産院から配布された、バースプラン(出産時の希望をまとめたアンケートのようなもの)の中にも同じように書いた。
実際に娘が生まれて、母乳はそう簡単には出ないことや、初めのころは吸われるだけでとても痛いことに驚いた。
相手はまだ哺乳が不慣れな小さな小さな赤ちゃん。
言われた通りに授乳をしても、きちんと出ているかも疑わしかった。
実際、一日目、二日目はほとんど出ていなかった。
一生懸命マッサージをして搾乳をしたら、ようやく乳白色の液体が目盛りひとつ分溜まった。
こんなにやって、これだけかと愕然とした。
あまりにも泣き止まない娘を見て、母乳が出ていないからお腹がいっぱいにならないんだと思って、助産師さんに「ミルクを足した方がいいんじゃないか」と相談した。
けれど返ってきたのは、意外にも「大丈夫だよー!心配なら白湯を足してもいいけど、足りてるよ。あなたのおっぱいはいい感じだよ。二日目でこれなら上出来!とにかく頻回で授乳をすること!そうすれば母乳も出てくるから!」という回答だった。
やはり助産師さんの目は正しく、熱血指導にまんまと乗せられて、徐々に母乳の分泌は増えていき、とうとう退院するまでミルクを足すことはなかった。
それから、自分で言うのもなんだけれど、わたしのおっぱいは大変優秀なおっぱいとして成長していった。
ひたすらに頻回授乳。一日に20回ほど授乳をする日もザラにあった。
その成果もあって、母乳育児はすぐに軌道に乗った。
一ヶ月検診の際、お医者さんに「母乳だけでこの体重の増えは、拍手喝采ものです!」と褒められた。
そうは言いつつ、いくら優秀なおっぱいだとしても、それなりにトラブルはあった。
不規則に訪れる胸の張りや痛み、最初の頃は授乳をすると子宮が収縮する関係で、とてつもない不快感に襲われた。
それに、母乳はとにかく消化に良く、つまり腹持ちが悪いため赤ちゃんはよく泣く。
夜間授乳も頻回で、新生児期はまとまって3時間寝ることすら困難だった。
朝まで通しで寝れるようになったのも、本当に最近だ。
胸の張りがなくなって、所謂差し乳に移行してからも、今度は切れて血が出ている中でも授乳をしなくてはならず、激痛と戦う日が続いた。
わたしの飲み食いしたものはすべて母乳に出てしまうため、市販の風邪薬も飲めず、カフェインも取れないし、洋服も大好きなワンピースを封印した。
風邪で具合の悪い日も、授乳はなくならない。
夫に預ける日は搾乳をコツコツと貯めた。
母乳育児の愚痴はいくらでも出てくる。
でも結局、今の今までミルクを挟み込む隙もなく、ひたすらに母乳育児を続けた。
なぜそこまで頑張れるのか自分でもよく分からなかった。
ミルクを足したら、母乳が減ってしまうかも、せっかくよく出ている母乳なのに。
せっかく優秀なおっぱいなのに。
謎の勿体無い精神が働いて、前しか見ることができなかった。ひたすらに突き進んでいってしまった。
けれど確かに、娘が目を閉じて哺乳する姿をこの距離で見ることができるのは世界でただひとり、わたしだけだった。
新生児の頃は、とにかく必死で不器用におっぱいを探し、「ハッハッ」と言いながら間違えて自らの拳を口に入れる様子がとにかくおかしくて可愛くて。
慣れてくると、わたしが胸元のボタンに手をかけるだけで「ウフフ」と笑う姿にも癒された。
それが辛さのすべてを相殺できるとは全く思わないけれど。
この恐ろしいほどに優しくうつくしい景色を忘れたくないと思ったことも事実だった。
◆
完全母乳でも、完全ミルクでも、混合でも、ママと子どもが良ければなんでもいいと思う。
実際、今でもやはりわたしは、こだわりがあって完全母乳育児をしたとは言えない。
ただ、たまたまわたしの身体と完母育児の相性が良く、たまたま娘が母乳をよく飲んでくれる子で、ただ周りの褒めを素直に受け取った結果、こうなったのだった。
ミルクも、夜中に眠い目をこすりながら哺乳瓶の用意をしなくてはいけないし、飲む量もきちんと計算しなくてはいけない。
混合だって、ミルクと母乳の大変な部分をどちらも乗り越えなくてはいけないから辛いだろう。
母乳は、添い乳で寝かせられるし(子どもを圧迫しないようにそのまま寝落ちしないように気をつけなくてはいけない)、おっぱいがあればなんとかなると思ってるので、ある意味ラクな部分は多い。
それぞれにメリットとデメリットがある。
娘は、わたしの母乳育児の賜物と言えば良いのか、弊害と言えば良いのか、おっぱいが大好きで、何かにつけて要求してくるようになった。
求められることは親としても嬉しいけれど、それだけでは済まない感情があった。
WHOは、2歳程度までの母乳育児を推奨しているけれど、日本の感覚ではまだまだ「一歳過ぎたら断乳」の考え方が根強いように思う。
実際、わたしの身近にも「2歳近くてすでに赤ちゃんじゃないのにおっぱい飲んでるのは気持ち悪い」と言うひとがいた。
特定の誰かを非難する意図がないことは分かっていたけれど、その言葉は刃のように突き刺さった(その人が悪いわけではない。後日話し合って和解もできた)。
一歳を過ぎたあたりから、卒乳や断乳という言葉がよぎるようになった。
この子が欲しいだけあげればいいじゃないか、周りなんかどうだっていい、と突っぱねられるほど、自分の考えに自信もなければ、覚悟も強さもなかった。
いつかはやめなくては、この子はきっと依存してしまいそうな気がするから、そう遅くないうちに。
そんな考えとは裏腹に、深く安心しながら哺乳する娘を見ると、もう彼女にはおっぱいがなくとも生きていけるのに、それを離すのは可哀想だという感情に襲われたし、わたし自身、この姿を見られなくなることが惜しい気もした。
そんな日々が続いて、一歳四ヶ月を迎えて少し経った頃、わたしは突然思い立った。
そうだ、明後日から断乳しよう。
実は少し前から、段階的に授乳を減らしていこうと画策していたのだけれど、悉く失敗していたのだった。
娘が欲しいと強請ると断り切れない。
押しに弱いわたしと、自我強めの娘の性格的になあなあになってしまって、いつまでも授乳回数は減らなかった。
たぶんわたしたちは、きっちり断乳をした方がいいかもしれない。
それならば、夫が休みの日が良いだろう。そう思った矢先、年末年始の大型連休の存在に気づいた。
今しかないのでは?
本当に思いつきだったので、覚悟も気持ちの整理もなにもなかった。
やってみよう、失敗したら仕方ないけれど、やるからには本気でやろう。
夫にも協力を仰ぎ、ついに断乳作戦が決行された。
◆
今日からおっぱいはないないね、そう何度も言い聞かせて、ある朝突然授乳をやめた。
娘は納得のいかない様子で自分から服をまくりあげたけれど、絆創膏が貼られた状態でないないだよと言い続けると、やがて諦めたような顔でくるりと踵を返した。
日中は拍子抜けするほど順調で、あんなに昼夜問わず欲しがる娘が、自分から要求する回数が格段に減った。
喜びよりも寂しさと、不安が優ったころ、その感情はあっけなく崩れていくことになる。
問題は夜だった。
ここ最近はずっと添い乳で寝かしつけをしていた娘にとって、寝る=おっぱいの方程式が作られている。
眠くて仕方ないのに、いつももらえるものがもらえない、どうして。
そんな感情でいっぱいだったのだろう。
娘は、こちらの胸が痛むほど、泣いて泣いて泣き尽くして、やがて眠った。
彼女の困惑と怒りと悲しみが、身体中から伝わったきた。
ああ、なぜわたしは断乳なんてしてしまったのだろう、と、正直に言って、後悔してしまった。
こんなに辛そうな彼女を見るくらいならば、2歳でも4歳でも、いつまでだってあげれば良かった。
わたしは彼女の世界一幸せで安心できる時間と場所を奪ってしまったのだ。
なぜ、無理矢理に引き離す必要があったのだろうか。
自問自答が止まらなかった。
2日目の夜、胸の張りが酷すぎて全く眠れなかった。岩のように硬くなり、しこりがいくつもできているのが触れただけでわかる。
全体が熱を持っていて、保冷剤を入れてもすぐにぬるくなるほどだった。
夜中に、YouTubeで圧抜きの方法を調べて実践する。
なかなかに難しく、時間がかかった。
排水溝に捨てられる母乳を見つめながら、虚しい気持ちになった。
せっかく娘のためを思って作られていた母乳が捨てられていく。悲しい。
おっぱい工場、とはよく言ったもので、母乳は飲ませれば飲ませるほど作られ続ける。
わたしのおっぱい工場はもうおしまいなのか、そう思うと、そこで働いていた労働者たちに申し訳ない気持ちになった。
おっぱい工場、ごめんよ。
もうきみたちに仕事はないんだよ。
わたしは、妊娠や出産を経て、自分の身体がここまで「自分の身体じゃない」感覚を知るのは初めてだった。
それは、日々大きくなるお腹だったり、産後に時間をかけて収縮して戻る子宮だったり、吸われるとたちまちツーンとした痛みをとともに母乳が分泌される感覚だったりした。
良くも悪くも、わたしは子どもを生かすための装置で、人間の身体はそうやってシステムされてきたのだと思った。
それは辛く悲しくやるせないことだと言える。不快感を覚えるときもあった。
でも、ある意味なぜか救いのようなものも感じた。
ひとは常に色々なことを考えて生きていく。
頭を悩ませて、人生を憂うことだって少なくない。けれど、わたしの身体はどうやっても所詮、動物の肉体なのだ。
そう思うと、その途方もなさに、わたしの抱えるものはすべて、どうしようもないのだ、と笑いながら手放してしまえるような清々しささえあるように感じた。
それは、わたしの弱さゆえの救いかもしれない。
そんなことに救われてしまってはいけないのかもしれない。
けれどたとえば、頭痛や憂鬱な症状が、すべて自分のせいではなく、気圧のせいなのだと分かると、それが治ったわけじゃなくとも、ほんの少しだけ心が身軽になれるような気がする。
自分では抗いようもない身体は、時折わたしを姿の見えない脅威からそっと身を守ってくれたように感じる。その感情は安心にも似ていた。
もはやわたしのおっぱいは、ただの戦友だった。
もう、自分の身体ではない。
一緒に育児の酸いも甘いも噛み分けた、相棒のような存在である。
おっぱいはわたしの身体であり、わたしの身体ではない。
だからこそ、おっぱいという言葉を恥ずかしげもなく使えるのかもしれない。
わたしは、ここまで一緒に走り抜けてくれたおっぱいに感謝を送りたい。
花道を用意してあげたいと思う。
本当によく頑張ってくれた、わたしの優秀なおっぱい。
◆
娘の断乳については、まだこの決断が正しかったのか分からない。
でも、娘を誰よりも近くで見ているわたしが、今だと思ったのならば、それがわたしの彼女にとってのベストなタイミングだったのだと思いたい。
いつか、「あの時断乳しておいてよかったわ!」と笑えるように。
とりあえずわたしは、この断乳作戦の日々を乗り越えるために、そして今まで頑張ったおっぱいのことを思い、まずはワンピースを着ておしゃれを楽しもう。