おっぱい工場閉鎖のお知らせ
年末におっぱい工場が閉鎖されるらしい。
朝礼で、突然工場長がみんなの前でそう言った。
当然そんなことを言われてもすぐには受け入れられなくて、大騒ぎになった。
それじゃあ、いま作られている分はどうするんだ?2日分はあるぞ。
そう言って怒ったやつもいたけど、決まったことは覆らないらしい。
その言葉通り、その日から急に出荷先からなんの音沙汰もなくなった。
ただ、余ってしまった分のやり場がなく、ダムが決壊するかのように、工場は作られてしまったものでいっぱいになって、今にも崩れてしまいそうだった。
暫くしたら、工場が壊れてしまわないようにと、作られたものがすこしずつ廃棄されていった。
一生懸命作ったものたち。一年と4ヶ月。どんなに眠くとも、どんなに病気になろうとも、休まず工場は24時間動き続けた。
その幕切れはあっけないものだった。
◆
おっぱいという言葉に恥じらいを感じるタイプの人間だった。
だからこそ、出産前は、産後のママさんたちや助産師さんたちがなんの恥ずかしげもなく、「おっぱいが〜」と言うのを見て、すこしだけ驚いていた。
でも、娘が生まれて変わった。
おっぱいは、ひたすらに娘を生かし続ける装置であり、食糧であり、それはもはやわたしの身体とは切り離された存在のようだった。
そうしていくうちに、おっぱいとわたしの間には妙な絆と思い出が刻まれていってしまった。
わたしはこれから、恥ずかしげもなく、おっぱいの話をしようと思う。
◆
出産前、母乳やミルクにとくにこだわりはなかった。
できれば母乳もあげたいけれど、夫や母に娘を預ける機会もあるだろうし、適度にミルクも織り交ぜていきたい、そうだ、混合がいいかな、程度の認識。
出産前に産院から配布された、バースプラン(出産時の希望をまとめたアンケートのようなもの)の中にも同じように書いた。
実際に娘が生まれて、母乳はそう簡単には出ないことや、初めのころは吸われるだけでとても痛いことに驚いた。
相手はまだ哺乳が不慣れな小さな小さな赤ちゃん。
言われた通りに授乳をしても、きちんと出ているかも疑わしかった。
実際、一日目、二日目はほとんど出ていなかった。
一生懸命マッサージをして搾乳をしたら、ようやく乳白色の液体が目盛りひとつ分溜まった。
こんなにやって、これだけかと愕然とした。
あまりにも泣き止まない娘を見て、母乳が出ていないからお腹がいっぱいにならないんだと思って、助産師さんに「ミルクを足した方がいいんじゃないか」と相談した。
けれど返ってきたのは、意外にも「大丈夫だよー!心配なら白湯を足してもいいけど、足りてるよ。あなたのおっぱいはいい感じだよ。二日目でこれなら上出来!とにかく頻回で授乳をすること!そうすれば母乳も出てくるから!」という回答だった。
やはり助産師さんの目は正しく、熱血指導にまんまと乗せられて、徐々に母乳の分泌は増えていき、とうとう退院するまでミルクを足すことはなかった。
それから、自分で言うのもなんだけれど、わたしのおっぱいは大変優秀なおっぱいとして成長していった。
ひたすらに頻回授乳。一日に20回ほど授乳をする日もザラにあった。
その成果もあって、母乳育児はすぐに軌道に乗った。
一ヶ月検診の際、お医者さんに「母乳だけでこの体重の増えは、拍手喝采ものです!」と褒められた。
そうは言いつつ、いくら優秀なおっぱいだとしても、それなりにトラブルはあった。
不規則に訪れる胸の張りや痛み、最初の頃は授乳をすると子宮が収縮する関係で、とてつもない不快感に襲われた。
それに、母乳はとにかく消化に良く、つまり腹持ちが悪いため赤ちゃんはよく泣く。
夜間授乳も頻回で、新生児期はまとまって3時間寝ることすら困難だった。
朝まで通しで寝れるようになったのも、本当に最近だ。
胸の張りがなくなって、所謂差し乳に移行してからも、今度は切れて血が出ている中でも授乳をしなくてはならず、激痛と戦う日が続いた。
わたしの飲み食いしたものはすべて母乳に出てしまうため、市販の風邪薬も飲めず、カフェインも取れないし、洋服も大好きなワンピースを封印した。
風邪で具合の悪い日も、授乳はなくならない。
夫に預ける日は搾乳をコツコツと貯めた。
母乳育児の愚痴はいくらでも出てくる。
でも結局、今の今までミルクを挟み込む隙もなく、ひたすらに母乳育児を続けた。
なぜそこまで頑張れるのか自分でもよく分からなかった。
ミルクを足したら、母乳が減ってしまうかも、せっかくよく出ている母乳なのに。
せっかく優秀なおっぱいなのに。
謎の勿体無い精神が働いて、前しか見ることができなかった。ひたすらに突き進んでいってしまった。
けれど確かに、娘が目を閉じて哺乳する姿をこの距離で見ることができるのは世界でただひとり、わたしだけだった。
新生児の頃は、とにかく必死で不器用におっぱいを探し、「ハッハッ」と言いながら間違えて自らの拳を口に入れる様子がとにかくおかしくて可愛くて。
慣れてくると、わたしが胸元のボタンに手をかけるだけで「ウフフ」と笑う姿にも癒された。
それが辛さのすべてを相殺できるとは全く思わないけれど。
この恐ろしいほどに優しくうつくしい景色を忘れたくないと思ったことも事実だった。
◆
完全母乳でも、完全ミルクでも、混合でも、ママと子どもが良ければなんでもいいと思う。
実際、今でもやはりわたしは、こだわりがあって完全母乳育児をしたとは言えない。
ただ、たまたまわたしの身体と完母育児の相性が良く、たまたま娘が母乳をよく飲んでくれる子で、ただ周りの褒めを素直に受け取った結果、こうなったのだった。
ミルクも、夜中に眠い目をこすりながら哺乳瓶の用意をしなくてはいけないし、飲む量もきちんと計算しなくてはいけない。
混合だって、ミルクと母乳の大変な部分をどちらも乗り越えなくてはいけないから辛いだろう。
母乳は、添い乳で寝かせられるし(子どもを圧迫しないようにそのまま寝落ちしないように気をつけなくてはいけない)、おっぱいがあればなんとかなると思ってるので、ある意味ラクな部分は多い。
それぞれにメリットとデメリットがある。
娘は、わたしの母乳育児の賜物と言えば良いのか、弊害と言えば良いのか、おっぱいが大好きで、何かにつけて要求してくるようになった。
求められることは親としても嬉しいけれど、それだけでは済まない感情があった。
WHOは、2歳程度までの母乳育児を推奨しているけれど、日本の感覚ではまだまだ「一歳過ぎたら断乳」の考え方が根強いように思う。
実際、わたしの身近にも「2歳近くてすでに赤ちゃんじゃないのにおっぱい飲んでるのは気持ち悪い」と言うひとがいた。
特定の誰かを非難する意図がないことは分かっていたけれど、その言葉は刃のように突き刺さった(その人が悪いわけではない。後日話し合って和解もできた)。
一歳を過ぎたあたりから、卒乳や断乳という言葉がよぎるようになった。
この子が欲しいだけあげればいいじゃないか、周りなんかどうだっていい、と突っぱねられるほど、自分の考えに自信もなければ、覚悟も強さもなかった。
いつかはやめなくては、この子はきっと依存してしまいそうな気がするから、そう遅くないうちに。
そんな考えとは裏腹に、深く安心しながら哺乳する娘を見ると、もう彼女にはおっぱいがなくとも生きていけるのに、それを離すのは可哀想だという感情に襲われたし、わたし自身、この姿を見られなくなることが惜しい気もした。
そんな日々が続いて、一歳四ヶ月を迎えて少し経った頃、わたしは突然思い立った。
そうだ、明後日から断乳しよう。
実は少し前から、段階的に授乳を減らしていこうと画策していたのだけれど、悉く失敗していたのだった。
娘が欲しいと強請ると断り切れない。
押しに弱いわたしと、自我強めの娘の性格的になあなあになってしまって、いつまでも授乳回数は減らなかった。
たぶんわたしたちは、きっちり断乳をした方がいいかもしれない。
それならば、夫が休みの日が良いだろう。そう思った矢先、年末年始の大型連休の存在に気づいた。
今しかないのでは?
本当に思いつきだったので、覚悟も気持ちの整理もなにもなかった。
やってみよう、失敗したら仕方ないけれど、やるからには本気でやろう。
夫にも協力を仰ぎ、ついに断乳作戦が決行された。
◆
今日からおっぱいはないないね、そう何度も言い聞かせて、ある朝突然授乳をやめた。
娘は納得のいかない様子で自分から服をまくりあげたけれど、絆創膏が貼られた状態でないないだよと言い続けると、やがて諦めたような顔でくるりと踵を返した。
日中は拍子抜けするほど順調で、あんなに昼夜問わず欲しがる娘が、自分から要求する回数が格段に減った。
喜びよりも寂しさと、不安が優ったころ、その感情はあっけなく崩れていくことになる。
問題は夜だった。
ここ最近はずっと添い乳で寝かしつけをしていた娘にとって、寝る=おっぱいの方程式が作られている。
眠くて仕方ないのに、いつももらえるものがもらえない、どうして。
そんな感情でいっぱいだったのだろう。
娘は、こちらの胸が痛むほど、泣いて泣いて泣き尽くして、やがて眠った。
彼女の困惑と怒りと悲しみが、身体中から伝わったきた。
ああ、なぜわたしは断乳なんてしてしまったのだろう、と、正直に言って、後悔してしまった。
こんなに辛そうな彼女を見るくらいならば、2歳でも4歳でも、いつまでだってあげれば良かった。
わたしは彼女の世界一幸せで安心できる時間と場所を奪ってしまったのだ。
なぜ、無理矢理に引き離す必要があったのだろうか。
自問自答が止まらなかった。
2日目の夜、胸の張りが酷すぎて全く眠れなかった。岩のように硬くなり、しこりがいくつもできているのが触れただけでわかる。
全体が熱を持っていて、保冷剤を入れてもすぐにぬるくなるほどだった。
夜中に、YouTubeで圧抜きの方法を調べて実践する。
なかなかに難しく、時間がかかった。
排水溝に捨てられる母乳を見つめながら、虚しい気持ちになった。
せっかく娘のためを思って作られていた母乳が捨てられていく。悲しい。
おっぱい工場、とはよく言ったもので、母乳は飲ませれば飲ませるほど作られ続ける。
わたしのおっぱい工場はもうおしまいなのか、そう思うと、そこで働いていた労働者たちに申し訳ない気持ちになった。
おっぱい工場、ごめんよ。
もうきみたちに仕事はないんだよ。
わたしは、妊娠や出産を経て、自分の身体がここまで「自分の身体じゃない」感覚を知るのは初めてだった。
それは、日々大きくなるお腹だったり、産後に時間をかけて収縮して戻る子宮だったり、吸われるとたちまちツーンとした痛みをとともに母乳が分泌される感覚だったりした。
良くも悪くも、わたしは子どもを生かすための装置で、人間の身体はそうやってシステムされてきたのだと思った。
それは辛く悲しくやるせないことだと言える。不快感を覚えるときもあった。
でも、ある意味なぜか救いのようなものも感じた。
ひとは常に色々なことを考えて生きていく。
頭を悩ませて、人生を憂うことだって少なくない。けれど、わたしの身体はどうやっても所詮、動物の肉体なのだ。
そう思うと、その途方もなさに、わたしの抱えるものはすべて、どうしようもないのだ、と笑いながら手放してしまえるような清々しささえあるように感じた。
それは、わたしの弱さゆえの救いかもしれない。
そんなことに救われてしまってはいけないのかもしれない。
けれどたとえば、頭痛や憂鬱な症状が、すべて自分のせいではなく、気圧のせいなのだと分かると、それが治ったわけじゃなくとも、ほんの少しだけ心が身軽になれるような気がする。
自分では抗いようもない身体は、時折わたしを姿の見えない脅威からそっと身を守ってくれたように感じる。その感情は安心にも似ていた。
もはやわたしのおっぱいは、ただの戦友だった。
もう、自分の身体ではない。
一緒に育児の酸いも甘いも噛み分けた、相棒のような存在である。
おっぱいはわたしの身体であり、わたしの身体ではない。
だからこそ、おっぱいという言葉を恥ずかしげもなく使えるのかもしれない。
わたしは、ここまで一緒に走り抜けてくれたおっぱいに感謝を送りたい。
花道を用意してあげたいと思う。
本当によく頑張ってくれた、わたしの優秀なおっぱい。
◆
娘の断乳については、まだこの決断が正しかったのか分からない。
でも、娘を誰よりも近くで見ているわたしが、今だと思ったのならば、それがわたしの彼女にとってのベストなタイミングだったのだと思いたい。
いつか、「あの時断乳しておいてよかったわ!」と笑えるように。
とりあえずわたしは、この断乳作戦の日々を乗り越えるために、そして今まで頑張ったおっぱいのことを思い、まずはワンピースを着ておしゃれを楽しもう。
夢の話
夢を見た。
タイムスリップをする夢だ。
遡った先は、2011年の11月だった。
高校一年生の冬。見覚えのある教室に、見覚えのある制服、見覚えのある友人たち。
異様にリアルな光景だった。
目の前に友人がふたりいた。
友人のひとりに「わたしね、2024年から来たんだよ」と言うと、彼女は「えー?」と笑って、あまり信じていない様子だった。
当たり前の反応だろう。
わたしが「本当だよ」と念を押すと、「じゃあこの後の未来を予知してよ!」と返された。
そうだな、何がいいだろう。色々なことがあったけれど、わたしにとって最近の出来事はこの時代に生きる彼女たちにはあまりにも遠いだろうし、と少し頭を悩ませ、そののちに思いついた。
「この中で〇〇が一番最初に結婚したよ」
そう言うと、友人は「まあそりゃそうだよ」と笑った。
そうなのだ。〇〇は、当時から一番最初に結婚しそう、と言われていた。
〇〇は、丸くてきらりと輝く目をこちらに向けてぽつりと呟いた。
「そうなんだ」
「うん」
彼女は続けて、わたしに問うた。
「わたしは幸せそうに過ごしてる?」
言葉に詰まってしまった。
なぜなら、彼女が幸せかどうか、わたしには知る由もないからだ。
そう、〇〇とわたしは、いま完全に疎遠になってしまっている。
彼女から一方的に避けられた形で、わたしと彼女の関係は終わってしまったのだ。
わたしの記憶の中の最後の彼女は、正直に言ってあまり幸せそうではなかった。
言葉に詰まったわたしに、彼女は顔を曇らせた。わたしは彼女にこの事実を悟られまいと言葉を続ける。
「ああ、そういえば、〇〇の結婚式はとても綺麗だったよ」
もうひとりの友人は、そうなんだあと目を輝かせた。
〇〇は、少しだけ悲しそうな顔をして笑った。
そこで夢は終わった。
目覚めたわたしは、夢の中で彼女にもっと慎重にあれこれと忠告をするべきだっただろうか、と思った。
彼女にふりかかる災難を、わたしはひとつひとつ知っているわけではないけれど、それでも悲しい思いをしてほしくはなかったから。
でも、と思い直す。
どれほど人生をやり直したいと思うことがあったとしても、彼女にはもう大切な存在がいて、そのいのちをやり直すことなど、きっと頼まれても断固として断るだろう。
だから、何も言わない方がよかった。あれでよかったのだろう、そう思った。
ここまで考えて、わたしは彼女に連絡を断たれてもまだ、彼女のことを嫌いになれていなかったのだと、気づいた。
それは、もうすっかり秋が居座ったころの少し肌寒い朝のことだった。
親のせい
少し前に父親と喧嘩したときに、わたしが「あなたの育て方のせいで自分はこうなってしまった」と言ったら、「ハタチ過ぎて、自分の問題をいつまでも親のせいにするな」みたいなことを返されて。
そのときは腹も立っていたし、色々言い返したんだけれどね。
でも、今日になってふとぼんやり、「まあ確かにそうだよなあ」とも思った。
もちろん、虐待とかネグレクトとか、いわゆる毒親と呼ばれるものから受けた影響はその限りではないけれど。
大なり小なり、親から受けた負の影響ってものはあるわけで。
わたしは、そういうものにいちいち固執して、自分自身にうんざりすることが多いのだ。
親だって人間だし、完璧ではないし、良いところもあれば悪いところもある。
結婚して子どもができると、自分が子どもの頃に「してほしかったこと」「してほしくなかったこと」にばかり心がとらわれてしまう。
それ故に、産前産後しばらくは、というか今まさにこれを書いている数週間前までは、なんとなく親との付き合い方に居心地の悪さを覚えることがあった。
正しくは、何かが噛み合わないというか。
ラジオの周波数がぴたりと合っていたものが、急に合わなくなったような感覚だ。
わたしのピリピリした空気はそれなりだったから、たぶん親も感じていたと思う。
親が変わったのではなく、わたしが変わったから。
でもそれは、わたしが親になったからではない。
たまたま、わたしが親の前で「子ども」から「人」になるタイミングが今だっただけで、きっとそれぞれに適切なタイミングがあるのだろう。
逆に言えば、このギャップが大きいことこそ、わたしが子ども時代にいかに「子ども」だったかが窺い知れる。
子どもが子どもなのは、当たり前のことなのだけれど、それはとても恵まれた環境のようにも思う。
◆
親にしてほしかったこと、してほしくなかったことはある。
それによって今の自分が形作られてしまったことをいつも痛感する。
でもそれは、自分で自分の悪癖や負の影響に気づいているからなのだ。
わたしは、父親が言っていた言葉にムカッときて、つい言い返した。でもそれは図星だったから。
自分の悪い部分をいつまでも親のせいにするより、今日からでも、自分で自分を変える努力をしていきたいと思う。
綺麗事かもしれないけれど、そっちの方がかっこいい。
第一娘に、いつまでも親のせいにするわたし(親)の姿を見せたくないし。
愛する覚悟、愛される準備
実家での同居生活ももう一年が過ぎた。
うちは普通の家庭とは違って、実家が4世帯で10人のひとがいるので。
助けられてることも多いし、その反面、もちろん少しの努力が必要なこともある。
それは覚悟の上でこの生活を始めたわけだし、当初は三ヶ月の予定が、色んな事情もあって、気づけば一年。
それを考えると、たぶん、思いの外暮らしやすかったのだと思う。
でもやっぱりわたしは、自分のお城を作っていきたい人間なので、ずっと仮住まいなのは性に合っていないような気もする。
こまごました雑貨や、インテリアを集めるのも好きだからこそ、何か素敵なものに出会えても「いまは仮住まいだし、物を増やすのは得策じゃないか」と諦めることが多い。
そういうのが少しずつ、不満になっていないとは言い切れない自分がいる。
とはいえ、こんなことを考えられるようになったのは、きっと育児にすこし余裕が出てきた証拠なのだとも思う。
振り返れば、新生児のころはとにかく眠りたい!それだけだったから、
◆
一年前の今ごろ、わたしは日々大きく重くなるお腹を抱えて、暑いなかほとんど毎日体調不良を感じて生きていた。
お腹の子にはやく会いたいな、とは思っていただろうけれど、同じくらい出産も不安で。
子が生まれてくることについて、わたしは「この子をどう愛するか」ばかり考えていて、「愛される」ことについては何の準備もしていなかった。
なんなら、仲良くなれるかな、とすら思っていたくらいだ。
けれど、実際に我が子を産み、育て、一年が経った今、つよく実感している。
これほどまでに我が子がわたしを愛してくれるとは、知らなかった。
おそらく、わたしが彼女を愛するよりも強く大きな気持ちで、彼女はわたしを必要としてくれているとさえ思う。
たまに、戸惑ってしまうくらいに、我が子は真っ直ぐにわたしを愛している。
仲良くなれるかな?とか、そういう問題ですらなかった。
たしかに年頃になった娘との付き合い方は、また違った難しさも出てくるのだろうけれど。
でも、わたしは娘が生まれる前、「娘とわたしは全く異なる人間」だと思っていて、それはもちろんそうなのだけれど、でも、予想より実際のところは、わたしと彼女はひとつの生命体のように暮らしている。
それはきっと、彼女が生まれて数年間だけの限られた時間なのだろうけれど。
とにかく、わたしは日々娘からの熱烈な愛を受けて生きている。
彼女はすでに、わたしにたくさんの幸せをくれている。わたしは彼女に何を与えてあげられるのだろうか。
なるべく多くのものを、丁寧に手渡していきたいと思う。理想だけれど。
検診いやすぎる
市の助成券の期限が迫っていたので、子宮頸がん検診を受けにいった。
娘をばあばに見てもらいつつ、3人で行った。
子宮頸がん検診。
最後に受けたのは妊娠する前だったか、した直後だったから、一年半くらい受けていないことになる。
久しぶりの内診台。あー、めちゃくちゃ嫌だ……と、思っているうちに呼吸が荒くなっていて、お医者さんに「大丈夫ですか〜?もうすぐ終わりますからね〜」と声をかけられた。
子どもを産むってめちゃくちゃ大変で、それこそ検診の5000兆倍くらい痛いこと、苦しいことを乗り越えたはずなんだけれど、それはそれ、これはこれである。
出産したとて、ロボットみたいな内診の椅子に座って足を開くのも、器具をいれられるのも、不快には変わりない。
というかむしろ、子を産み育て、色々経験した今だからこそ、この検診の不快について表明したい気分だ。
もうね、なんなんだろうね、なんかこう、お腹のエコーだけで色々わかるようになったらいいのにねえ。まあできないんだろうけどさ。
ああでも、婦人科系だけじゃなく、そのうち胃カメラとかバリウムとかもやらなくちゃいけないんだろうな……。
検診。いやすぎるけど、娘のために長生きしなくちゃいけないし、やろう、これからも。
◆
夫が寝たあとにで、出産当日のラインを振り返る〜みたいなのがやってたので、わたしも振り返ってみた。
わたしの場合は、最初から最後まで夫が立ち会ってくれてたから、みんなのようなドタバタラインは一切ないんだけど、産まれてから退院するまでのラインは結構見応えがあった。
今思い出しても、入院中がいちばん辛かったな〜。
赤ちゃん生まれて幸せなんだけど、同じくらいちゃんとできるか不安で、それより何よりまず身体がズタボロだし、眠れないしで、普通にコンディションが最悪だった。
あと、産院に5日も泊まるってのも地味にね、ストレスだよね、自分の家じゃないから。
もちろん、めちゃ綺麗で新しくて清潔感あって設備も整ってて、ごはんもおいしくて、心強い助産師さんもいて……今思えば、すごく恵まれた環境なんだけどね。
母親になって一日、二日、とかでふたりきりで病室で、ただひたすら泣くのをあやしたり、出ないおっぱいをあげたり、これでいいのかなって不安になってもすぐ話せる相手がいなかったり。
入院中は心細かったから、その分夫にも色々ラインしてたなあ。
だからこそ、今読んだらあの時の気持ちが蘇って、懐かしいなーってより、少し胸が痛くなったよ。
本気で頑張ってて、すっごく偉いなあ、って。あの日にタイムスリップして、自分のことを力一杯抱きしめたくなった。
でもねぇ、「こうすればいいよ」とかそういうアドバイスを言ってやりたい!って気はしないんだよ。
だって、あのときのわたしにはあれが精一杯だったし、何度同じことを繰り返しても、わたしは同じように過ごすのだろうし。
魔の48時間で泣き続ける娘を一晩中あやしつづけたとき、娘が黄疸になって入院延長したとき、泣きながら治療に耐えてるのをみたとき、今なら泣かないって思えるかっていうと、無理だもの。
きっとまた泣いてしまうよ。
それに、必死に頑張ることや、泣いてしまうことは、悪いことじゃない。
そのときは辛いかもしれないけど、懸命に向き合ってる証拠だし、わたしは逃げたくないって思うから、たぶん無責任に「頑張らないで、力を抜いて」って言われるほうが嫌だと思う。
もちろん、身近な人がわたしを思ってそう言ってくれるときは、素直に嬉しいし、ありがたいなって思うし、なによりわたしだって友達にそう言ってしまうけど。
でも、自分は、自分だけは、わたしのこの不器用な頑張りも、すべて認めてあげたいと思うのだ。
だから、約一年前にタイムスリップしたとして、かけてあげたい言葉は「頑張りすぎないで」とか「もっと力抜いて、手抜いて」とかじゃなくて、「よく頑張ってるね!本当に偉いよ!おかげで今のわたしと娘がいるよ、ありがとう」かな。
あと、「新生児の時よりは、だいぶ楽になってるからあとちょっとの辛抱よ!」と「今は5時間くらいはまとめて寝られてるからね」と……
いや、言いたいことありすぎて締まらないな。
ひとりの日
さすがに娘と一緒にいすぎて、わたしのメンタルが壊れていく音がし始めた。
これはまずいと思ったので、夫に頼んで1人リフレッシュ時間を作ることにした。たぶんわたしは、この1人の時間が少ない方だと思う。
生後2、3ヶ月で、夫に預けてリフレッシュしているママさんをSNSでよく見かけた。
わたしは、実家で育児をしているから人の手がたくさんあるし、孤独じゃないし、だから娘といつも一緒にいることがとても自然で、「1人でリフレッシュするなら娘も連れていきたい」という考えの方が強かったと思う。
実際、完全母乳でやっていたから、夫に預けづらい事情もあった。
完母も、とくにこだわりがあったわけじゃない。
こういう言い方をするのもどうかと思うけれど、助産師さんの熱血指導に乗せられて、たまたまわたしの体質と性格に合っていたから。
完母も、完ミも、混合も、それぞれに大変さがあると思う(まじで)。
完母の愚痴は山ほど出てくるけれど、何故かやめようとは思わなかった。このまま卒乳まで駆け抜けていきたいと思うくらいには、わたしは完母を選んだことに関しては特に後悔はしていない。
メンタルやばいから1人時間つくってもらったわ、と書いてしまうと、ものすごくスムーズにことが進んだように思えるが、実際はもうめちゃくちゃだった。
わたしは、自分のこころが終わってしまい、泣き叫び、夫(と娘)を困らせた。
でも、この状況の一端、というかわたしとしては、ほとんどの責任は夫にもあると感じていたから、ボロボロになったわたしを受け入れるべきだと半ばなげやりだった。
わたしのメンタルが突然爆発したものだから、夫はわたしのリフレッシュ時間をつくることに躍起になった。
計3回だ。二日間で、夫はわたしに3度の自由時間を設けた。
それで、今これを書いているのは、3回目の1人時間というわけだ。
◆
1回目は、昨日の夜。
19時から家を出て、22時には帰る約束だった。
どこへ行こうかと考えるなかで、なるべく近場で済ませたいと思った。何かあった時にすぐ帰れる距離がよかったからだ。
数日前にびっくりドンキーで、期間限定のサルサソースのハンバーグのCMを見て、それからずっとあのハンバーグが食べたかったことを思い出した。
大学生時代、友人とびっくりドンキーでよくダラダラと時間を過ごしたものだ。
あの場所なら、食事をしたあとも少しだけゆっくりできる気がした。即決だった。
店内に1人で入り、席に着くことに、妙な気恥ずかしさを感じた。産前はこういう感覚はなかったけどなあ。
ハンバーグはとてもおいしかった。
おいしくて、調子に乗ってポテトまで頼んだ。ポテトもおいしかった。バカデカ胃袋だな、と思った。スイーツを頼むのは、さすがにやめた。
食べた後は、色々なことを考えたり、紙に書いたりした。
色々なこと、というのは主に来月に控えた娘の誕生会についてだ。
自分でつくるものや、買っておくべきものなどをリストアップしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。
何度か、夫に「娘はどう?大丈夫?」とか、「ちゃんとごはん食べた?」とか聞こうと思って、ラインに文章を打ち込んだけど、すぐに消す、という作業を繰り返した。
もし、「だめだ、帰ってきて」と言われたら、わたしは夫や娘に、腹を立ててしまうような気がして、そんな自分になりたくなかったからだ。
結局、娘のことばかり考えて、帰宅の時間になった。
帰る寸前に、近くの席にいた男女グループの学生たちが「俺めっちゃ夜行性だよ!歯磨きとかも外でやってるし」と、意味不明なことを言っていて、若干後ろ髪を引かれた。
帰りながら、「つまんなかったな」と思った。でも、このリフレッシュ時間がおもしろくある必要はないのだとも思った。
夜道を運転しながら、「スピード違反取締り」電光掲示板を見て、うわーっとなった。
「このまま、あてもなくどこかへ行ってしまいたい」と。
わたしはまだ、大丈夫になっていないのだと思った。
◆
2回目は、今日の昼間。
朝起きて、夫が突然「俺、娘ちゃんと出かけてこようかな」と言うので、大歓迎だよ、と送り出した。
朝の化粧や、部屋の掃除がゆるやかにできるだけでも気持ちが大違いだ。
母と昼食を食べて、ドラマを見ながら悠々と過ごした。
気づいたら14時近くなっていて、夫から娘と楽しく過ごしている様子の写真や動画が送られてきた。
なんと、夫と娘はこの短時間で、山形までドライブし、道の駅で鮎の塩焼きをふたりで食べ、川に少しだけ入るなどというとても楽しいイベントをこなしていた。
川の光に照らされたふたりの目はとても澄んでキラキラしていて、綺麗だった。
もうすぐ帰るね、と言われて、ああ、この時間が惜しいなと思ってしまった。
◆
3回目は今日の夜。
さすがに二日続けて自由時間をもらったから、もう十分だと思っていた。
けれど、夫が譲らなかった。
「絶対に出かけたほうがいい」と。
そもそも、インドア派のわたしは、出かけるだけでそれなりに疲れる。
だから、もう家にいたほうがいいかもしれないと考えていたのだけれど。
でも、確かにわたしの中には「行きたい場所」が浮かんでいた。
夫の押しに負ける形で、わたしは夕食を食べた後に出かけることにした。
向かった先は大衆浴場だった。わたしは昔からほんとうに、温泉だの銭湯だのの類がすきだ。
きのう、びっくりドンキーであれこれと考えこんでいるうちに時間が過ぎてしまったことを思い、そうだ、どうせ時間が過ぎてしまうのなら、せめて身体を休ませようと思ったのだ。
それに、お風呂に入っていると色々な思考がめぐるわりに、スマホも触らずメモ書きもできない。それがむしろ、救いになるような気がしたのだ。
その温泉は、改修以前によく訪れた場所だけれど、新しくなってからは一度も足を運んだことがなかった。
営業時間を見ると、2:00まで開いているらしい。なんとも心強い。まあ、そこまで長居はしないけれど。
娘が生まれてから、お風呂に入るときはいつも慌ただしい。だからこそ、自分1人でゆっくりと身体を洗い、ゆっくりと湯船につかる感覚はわたしを癒した。
のぼせやすいので、ほとんど露天風呂の椅子に座って目を瞑っていたけれど、それだけでわたしは何かから解放されている気がしたし、この時間には価値があると思った。
子連れが目につく。娘に思いを馳せる。わたしが母ではない時間はない。もうそれはどうしようもないことだった。
お風呂から上がり、マッサージをした。
アイスを食べるか迷いながら、休憩所に腰をかけてすぐ、夫から連絡がきた。
娘の痰が絡んで、呼吸がしづらそうだと。
きっとわたしがいなくて泣いているに違いない。
わたしは、すぐに立ち上がって出口に向かった。帰ろう、いますぐに。もう、23時に近かった。
わたしの自由時間は、ここで一旦おしまいだなと思った。
ようやく、すこしだけ心が晴れた気がした。
うんざりした気持ちにもならず、腹も立たなかった。
◆
知り合いのママ友が「子育てをしていて辛いと思ったことがない」と言っていた。
わたしは、そんな彼女のことを心から尊敬していたし、自分もそうなりたいと思った。
きっと嫌なこともあるだろうけれど、それでもわたしは育児を楽しめるはずだと、期待していた。それは、思い上がりだったのかもしれない。
わたしの母は、わたしの育児を楽しんでこなしたクチだ。
わたしも、母の辛そうな顔を見たことがないし、母自身も育児を負担と思ったことはない、ましてや1人になりたいとすら思ったこともないのだと言っていた。
母のような母になれるか、それは以前からわたしの頭の片隅にあった課題だ。
彼女のようになれる気がしなかった。
わたしはそこまで、器用でもないし、キャパシティも広くないから。
温泉からの帰り道、夫との会話を思い出した。
少し前の話だ。
運転中の夫に、育児を辛いと思ったことがないママ友の話をした。
わたしは、「メンタル強いんだろうなぁ」と言った。
夫はすぐに、「忘れるのが上手なんだろうね」と言った。
わたしは、その言葉を聞いて、雷に打たれたような衝撃を受けた。
だってその言葉は、わたしの理解の前提すら壊す勢いだったから。
それじゃあ、なんだ。育児を辛いと思ったことがないのではなくて、育児の辛かったことを忘れているということなのか。
驚いたけれど、何事もないような顔をしながら運転する夫を見て、そうか、そんな考え方もあるかもしれないと思った。
いやむしろ、その方がわたしにとって希望があった。
皆だれしも、辛さを感じて、それでも乗り越えて、そして忘れていくのだと。
それならば、わたしのこの苦しみの日々も、いつか消えて忘れていくことができるかもしれない。
そうしたら、わたしは母のような母になれるのではないか、と。
ここまで書いて、わたしはでも、この日々を忘れたいのだろうかと疑問に思った。
忘れることは救いだけれど、忘れないことが悪ではないのだ。
わたしは、この日々を美しく変えなくてもいいのかもしれないと感じはじめていた。
理想に殺されるな
時折、本気ですべてが無理になるのだけど、今日がまさにそれだった。
わたしはもうずっと前から、善い人間であろうという理想が高すぎるのだ。
善い母、善い妻、善い人間。
他人に対して、限界まで寛容でいたい。
許し合って生きていきたい、という理想がある。
けれど、それが成せるのはたぶん、とても強い人間なのだ。まず前提として、フィジカルが。
大きな器ですべてを飲み込んだつもりが、蓋を開けてみたら、限界寸前。
あっ、やばい、と気づいたころには、すべてがダメになって色んなものが溢れ出し、割と手遅れになっていることが多い。
子育てに関してのそれは、ひどく危険である。自覚しているけれど、今のところはどうにもなっていない。
こんな調子でこのまま生きていくのかと思うと、とても恐ろしく、まるで途方もない迷路に迷い込んだ気持ちになる。
◆
夏らしい感じのイベントへ赴いた。
プロジェクションマッピングがどうたら、光がなんたら、みたいな雰囲気の、夜に楽しむ系のそれだ。
会場は川沿いで、新しくできたばかりの綺麗な施設。
キッチンカーが並び、草っ原には子どもたちが走り回り、中央には大きな気球が紐で縛られて、遠くへ飛んでいかないように浮かんでいた。
入場無料で、それはいいのだけど、その代わり会場では現金が一切使えず、インフォメーションで「会場で使えるオリジナルの通貨」をあらかじめ買う必要があった。
なんだそのめちゃくちゃ面倒くさいシステムは。
しかも、そのオリジナルの通貨は、1000円で5000ポイントと交換されて、紙幣でいうと5枚もらえる。
そして、キッチンカーにはそのオリジナルの通貨(仮に、ルルムとする)で、金額の記載がある。
からあげは、2000ルルム。つまり、400円である。
ピザは、8000ルルムだった。日本円に換算すると1600円。
割高なのはこの際良いとして、このルルムと円の計算がめちゃくちゃだるかった。
まあ、こんなにだるいシステムにお金をかけてるということは、なんらかのメリットがあるのかもしれないけれど。
途中、部活帰りのような中学生くらいの男の子たち4人組が、「え?なにこのクソみたいな制度」「てか、どこで交換できんの?」と会話をしていて、その様子がなんだかまさに若い子達っ!って感じで、とてもキラキラしていてかわいかった。
すでに親の目線である。
「わかる〜。だるいねこの制度。あと、そっち行ったら交換できるよ」と、会話に混ざりたかったくらいだ。
うちは娘だから、ちょっと違うと思うけれど、わたしの娘もいつかこうして友達だけで夏祭りのようなイベントに赴くのだろうか。
遠い未来を想像して、すこし笑みがこぼれた。
◆
ていうか、一歳くらいになると2人目が欲しくなってくるよ、っていう言説は一体なんだったのか。
わたしはもう、自分のことと、一人娘のことと、たまに夫のことで精一杯すぎて、本気で全然余裕がないし、全然2人目欲しいという気持ちにならないんだが。え?どういうことだよ。
まだ0歳でこんなにヒイヒイ言っていて、わたしはこの先どうなってしまうのだろうか。
というか、元々一人っ子最高と思って生きてきたので、当たり前に自分も一人っ子を育てようと思っていた。
その考えは揺るぎないものだったはずなんだけれど。
でもいざ子供を産んでみると、1人で終わりにしていいのかな?という謎の感情が湧いてくる。
わたしのそれは、純粋な「2人目ほしい!」とは違う気がする。
なんていうか、もう産めなくなってから「あ〜もう1人産んでおけばよかった」ってなっても遅いし、そうなる前に産んでおいたほうが……???みたいなやや打算的な、謎の感情である。
まあシンプルに、こんなに可愛い娘の別バージョン(?)を見てみたいという気持ちは少しあるけれど。
あとは、兄妹がいたほうが、将来支え合って生きていけるかな〜みたいな希望。
いやでもそれに関してはあんまりあてにしない方がいいか。実際、誰しも死ぬ時は1人だし。
でも、娘のことを一生懸命に考えてくれる人が、そして娘が一生懸命になって考えられる人が1人でもいたら、わたしは安心して死ねるなと思ってしまう。それが、兄妹でも、パートナーでも、友人でも、なんでもいいのだけれど。
我ながら、エゴの塊だ。
2人目問題は、たぶん知らないふりをしているうちに、過ぎ去って忘れていくのだと思う。
だって、わたしにはこんなに尊く、そしてとても恐ろしい毎日を、もう一回過ごす気力が足りてない。